みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア28「酒井忠次は目が見えなくても観察力が鋭いと秀吉から褒められた




『酒井忠次は目が見えなくても観察力が鋭いと秀吉から褒められた』

(出典・「酒井忠次公傳 他)

さて今回は四天王中一番小さな体格だった酒井忠次さんの話です(四天王展の甲冑を見たらすごく小さくてびっくりした‥)。
孔は忠次の数あるエピソードの中でこれが一番好きだったりします。


酒井忠次は晩年秀吉の招きで京都に移り住み、目を患いながらも静かに余生を送ったとされています。
主君との不仲説などもありますが、実際は秀吉から
「若い武将たちにベテランの武勇伝を聞かせてやってほしい」
というたっての頼みで招かれたようです。

そんな中、秀吉は九州の名護屋に朝鮮出兵の玄関口とするべく城を築きます。新しい城に到着した秀吉は部下に

「城に架かる橋の渡り初めには誰を申し付けるべきか」

と問いかけました。
諸大名の先頭に立って歩く栄誉ある役目、みんなは当然ナンバー2の徳川殿だと思ったのですが‥
秀吉はあえて酒井忠次を指名しました。

すでに隠居して、しかも秀吉の直臣でもない忠次の指名‥ちょっとびっくりする大名たち。

当時酒井忠次66歳。家康について九州まで来ていたのですが、すでに目もほとんど見えず、一人家康の宿舎で留守番していたのでした。
かつての有名武将とはいえ、すでに彼は「過去の人」でありました。

そんなときに突然命ぜられた今回の大役。

家康は手づから忠次の装束を繕い、かつては父とも兄とも頼んだ自らの家老を秀吉の前に進ませてやります。
やがて忠次は小姓2人に手を引かれながら、橋を渡ります。
それに続く秀吉と、家康・利家ら諸大名の行列。忠次のペースに合わせているので、かなりスローな行進です。


その中ほどで忠次は立ち止まり、橋の反り具合、堀の様子などを褒めました。
すでに目はほとんど見えないのに‥。驚く大名たち。

それから門の前に来て門の彫り物について小姓に尋ねました。小姓が
「梧に鳳凰の由に候」
と答えると、忠次は後ろの秀吉に向かい、

「御門の格好、残るところ御座なく候(←この辺の訳し方がわかりませんでしたので原文のまま書きます)。
ことに彫り物は唐の鳥、まことにめでたきことですな。殿下は唐までもお手に入れる(唐鳥=唐取り)ということですな。」

と賞賛すると、秀吉は非常に感じ入り

「左衛門尉(酒井忠次のこと)でなければ、このように心配りをして渡り初めをするものはおらぬであろう。さすがなり!」

といって老いても変わらぬ忠次の勘の鋭さ、頭の回転の速さを大いに褒めました。
並み居る大名衆もこれには大喝采したといいます。

忠次、かっこいい!
きっと若いころから頭の回転の恐ろしく鋭い人だったのでしょう。それがために非情なこともしたけれど、それでも家康にとっては忠次は得がたい人材だったのでしょう‥。
と同時に、遊び心も忘れない「田舎の面白じいさん」でもあったんじゃないかなあ。
視力を失ってもまだまだバイタリティにあふれた食えないじいさん‥(実は隠居してからも侍女との間に子供作ったりしてるしね‥ごほごほ)。
案外忠次の隠居生活はにぎやかだったのかもしれません。


カット解説‥「四天王展」で見た、忠次の軍配。一つでいろいろ便利!まさに合理主義‥というか、コワザの効いたものに愛を感じる性分だったのかなあ。
現代で言うなら万能ナイフ?(缶きりとか、コルク抜きとか付いてる奴)とか無意味に集めたり、システム手帳とか携帯とかの機能をほとんど使いこなしたりしてたかも。

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