みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア21・石川数正は子供のころ、工作が得意だったとする本がある




『石川数正は子供のころ、工作が得意だった、とする本がある』

(出典・「家康名臣伝」童門冬二/東洋経済新聞社)

長らく更新せずにすみませんでした。最近仕事の方が忙しくなってきまして、なかなか休みも取れない状況です。もう2~3ヶ月もすれば少しは落ち着くと思うのですが‥。

久々の更新は私が戦国に興味を持つきっかけとなったお方、石川数正さんです。

少年家康が駿府に人質になっていたころの話。

人質生活は苦しく、その日の食べ物にも困ることも多々あった‥というのは有名な話。

このとき、最年長の近習である数正(当時は与七郎)のほか、酒井忠次(当時23歳)なども苦労をともにしておりました。

そんなとき、数正は幼い主君のためになんと

竹馬を作ってやったそうです(^^)!

家康は喜んでこの竹馬に乗り、数正に乗り方を教えてもらい歩けるようになると

「この竹馬の一本の足は数正だ。もう一本は忠次だ。」

といって喜んだ、といいます。


‥なんだかこのときの主従の様子を想像するだけで幸せな気分になってしまいますね。

この後、実際に酒井忠次は東三河の総司令官に、石川数正は西三河の総司令官になって徳川の文字通り「双璧」となっていますので、いかにも後世に創作された逸話っぽいんですが(第一戦国時代に竹馬があったのかとか)、そんなことはどうでもいいのです!


さらに、このころ数正はよく木切れのハギレを使って城を作ったといいます。城を完成させた数正は

「やがて若君にこんなお城を作って差し上げますぞ。」

といい、家康も

「楽しみにしている。」

といった‥ということです。


数正、いろいろ作ってたようです(^^)。
ストレスのたまる人質生活の中、近習筆頭である与七郎少年は少しでも生活を楽しくするために貧しいなりに一生懸命工夫していたのでしょう。

現代でいうと、100均グッズや海辺のごみを使っておしゃれな雑貨を作ってしまうカリスマ主婦などの元祖なのかもしれません。


‥しかし、数正、忠次のその後の運命を考えると、この話がなんだか切なくて切なくて‥。

数正は後年、城作りの名人と言われるようになり、土呂城などを家康のために作ったそうです。
しかし、一番有名な城、松本城を作ったのは、殿のためではなく、秀吉のためでした。


若き主君のために慣れない手つきで竹馬をこしらえる家老の息子。
その苦労を知ってか精一杯喜んでくれた竹千代は、与七郎にとってきっと尽くしがいのある主君だったのでしょう。


ここにいるのは、ただその日をせいいっぱい生きている少年たちの姿です‥。

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