みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア23・「出奔したのは石川数正ではなく、石川康正」




『出奔したのは石川数正ではなく、石川康正』

(出典・「信州松本史談」中島次太郎/明倫堂書・松本と岡崎の図書館で見つけたどなたかの論文←すみません、今度探してお名前調べます)


実は数正の息子は3人いますが、それぞれの名前は康長、康勝、康矩。
ここで何か変だと思われませんか?
‥あれ?「数」の字も「正」の字も付いていない‥。

これは数正が出奔当時「石川康正(昌)」と名乗っていたせいで、その後元服した息子にこの「康」の字を与えたためだと思われます。
長篠合戦図屏風などには確かに彼のことを「石川康昌」と書いてあります。

じつは数正出奔の数ヶ月前、主君家康が数正に自分の名前の一字をなぜか数正に与えたのだそうです。
なぜこの時期に?
榊原康政のように、戦ですごい働きをしたとか明確な理由があるのならともかく‥。

出奔数ヶ月前‥このころはすでに秀吉との和平案を唱える数正の立場は相当きわどいものになっていたと思われます。
もちろん、裏切るのではないかといううわさも公然とささやかれていたはず(一説には秀吉が数正を孤立させるためにそういううわさを流したとも‥)。

資料にした本の著者の説のよると、主君家康は数正を信頼しているということを示すために、あえてそういうパフォーマンスをしたのではないかとか‥。

なんだか仮面夫婦とささやかれている芸能人カップルがことさら仲がいいところをマスコミに見せようとしてるみたいです(そしてしばらくしてやっぱり離婚するんだな)。


ですが数正は出奔してまもなく改名して天正14年ごろには「石川吉俊」または「石川吉輝」と名乗っていたそうです。

だったら息子にも「吉」の字をつければいいのに、そうしなかったのはやっぱり家康への忠誠心があった、少なくとも家康個人を嫌っていたのではなかったのだと、私は思いたいのですが。


↑今回の挿絵について‥
大河「徳川家康」では私は「伊賀越え」の回が一番好きです。
ふだん触れ合うことのない百姓たちとの係わり合いの中で困難を次々に克服し、人間的成長を遂げる家康。
岡崎に向かう船の上で朝日に思わず手を合わせる主人を見てほかの家臣は
「殿はよっぽどうれしかったんじゃろうなあ。三方が原での敗戦でも、手を合わせることはしなかったのに。」
などといっている中、数正だけはそんな殿をいとおしそうに見ているのです(本当に、ず~っと無言でうっとりと見てるんです、江原真二郎さんが!)
たったこれだけのシーンですが、この後の展開の大きな伏線なのです。
たぶんこのとき数正は殿のために自分のすべてを投げだしてもいいとか思ったのです!きっと!

それやこれやを考えると‥いやもう、ゴールデンタイムにこんな映像流していいんですかってくらい‥色っぽいシーンでありました。

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トリビア21・石川数正は子供のころ、工作が得意だったとする本がある




『石川数正は子供のころ、工作が得意だった、とする本がある』

(出典・「家康名臣伝」童門冬二/東洋経済新聞社)

長らく更新せずにすみませんでした。最近仕事の方が忙しくなってきまして、なかなか休みも取れない状況です。もう2~3ヶ月もすれば少しは落ち着くと思うのですが‥。

久々の更新は私が戦国に興味を持つきっかけとなったお方、石川数正さんです。

少年家康が駿府に人質になっていたころの話。

人質生活は苦しく、その日の食べ物にも困ることも多々あった‥というのは有名な話。

このとき、最年長の近習である数正(当時は与七郎)のほか、酒井忠次(当時23歳)なども苦労をともにしておりました。

そんなとき、数正は幼い主君のためになんと

竹馬を作ってやったそうです(^^)!

家康は喜んでこの竹馬に乗り、数正に乗り方を教えてもらい歩けるようになると

「この竹馬の一本の足は数正だ。もう一本は忠次だ。」

といって喜んだ、といいます。


‥なんだかこのときの主従の様子を想像するだけで幸せな気分になってしまいますね。

この後、実際に酒井忠次は東三河の総司令官に、石川数正は西三河の総司令官になって徳川の文字通り「双璧」となっていますので、いかにも後世に創作された逸話っぽいんですが(第一戦国時代に竹馬があったのかとか)、そんなことはどうでもいいのです!


さらに、このころ数正はよく木切れのハギレを使って城を作ったといいます。城を完成させた数正は

「やがて若君にこんなお城を作って差し上げますぞ。」

といい、家康も

「楽しみにしている。」

といった‥ということです。


数正、いろいろ作ってたようです(^^)。
ストレスのたまる人質生活の中、近習筆頭である与七郎少年は少しでも生活を楽しくするために貧しいなりに一生懸命工夫していたのでしょう。

現代でいうと、100均グッズや海辺のごみを使っておしゃれな雑貨を作ってしまうカリスマ主婦などの元祖なのかもしれません。


‥しかし、数正、忠次のその後の運命を考えると、この話がなんだか切なくて切なくて‥。

数正は後年、城作りの名人と言われるようになり、土呂城などを家康のために作ったそうです。
しかし、一番有名な城、松本城を作ったのは、殿のためではなく、秀吉のためでした。


若き主君のために慣れない手つきで竹馬をこしらえる家老の息子。
その苦労を知ってか精一杯喜んでくれた竹千代は、与七郎にとってきっと尽くしがいのある主君だったのでしょう。


ここにいるのは、ただその日をせいいっぱい生きている少年たちの姿です‥。

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トリビア16・手袋の結び方を習うために行軍中に寄り道した人がいる




『手袋の結び方を習うために、行軍中、寄り道した人がいる』

(出典・「歴史読本」特集・徳川家康と三河武士団)

さっき久々に大河ドラマ「徳川家康」の数正出奔のあたりをビデオで見なおしていました‥やっぱりいつ見ても泣けます。江原真二郎さんが超エロかっこいい!


そんなわけで今日のトリビアは‥

「手袋の結び方を習うために行軍中寄り道した人」
それは徳川の家老にして西三河の総司令官であった石川数正その人です。


時は三方が原の戦い直前‥

数正は信長の加勢として近江に向かう途中でしたが、信玄が遠江に進軍中と聞き、急遽引き返します。
西三河総司令官として一国も早く帰らねばなりません。

ですが数正、その際、何を思ったか道を外れ、浅岡某という弓矢の名人の家を訪ねます。

そしてユガケという、弓を射る時の手袋の緒の結び方を習ったといいます。

そのわけを訪ねる人に向かって

「自分は弓矢の引き方は知っているが、田舎流であって、作法にかなったユガケの結び方も知らない。今度の戦で討ち死にした場合、

数正は弓矢の作法も知らなかった、と

人のあざけりを受けたくないからである。」

と答えたといいます。


危急存亡の中、作法のために寄り道する彼。
きっと現代にいたら冷やし中華にマヨネーズをかけたり、トーストにバターと小倉あんをぬったりするなどと聞くと怒り出すタイプかもしれません。
いくらおいしいといってもカレーに納豆をかけるなんて聞いたら卒倒するかもしれませんね。

まあそれは冗談として。


数正は田舎侍三河武士の中にあって、たしなみを持ったジェントルマンだったようです‥。

こんなエピソードや、彼の建てた松本城のストイックかつ品のあるたたずまいを見ると、彼の人柄がなんとなく分かるような気がしますね。


彼の出奔には諸説あり、家康のスパイとして秀吉に寝返った、家臣団中で地位を失い始めていたから新天地を求めたなどさまざま言われております。
でもそんなことの前にまず、

うん、三河気質は肌に合わなかったかもね‥。

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