みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア41「古風だとされる酒井忠次の甲冑は‥」

忠次甲冑


『古風だと言われている酒井忠次の甲冑は実はハイテク』

(出典・・宮崎隆旨氏講演会「徳川四天王の甲冑」レジュメ)

岡崎市で開かれた「徳川四天王展」でも展示されなかった酒井忠次の甲冑、色々威胴丸具足(代わりに別の甲冑がきてました)。

戦国末期、機能性に優れた当世具足(忠勝や康政のような、鉄板を重ねたようなもの)が主流になっていった時代、四天王のうち酒井忠次の甲冑だけはこのような(↑イラスト参照)中世の香り漂う毛引威でした。しかも使いにくいと言われる大袖(板みたいな肩のパーツ)であります。

むむ今で言うなら一人和装で渋谷を歩いているような、昔かたぎの老紳士の装いといったところでしょうか!!
現代人は忠次のこの甲冑を評して「いかにも古武士、古風で頑固なデザインだ」と言います。


‥しかし。

実はこの甲冑、古風だ頑固だと言われながら
ほとんどの部分が革でできた超軽量品なんだそうです。

小札(こざね)という一番ベーシックな作り(小さい鉄板と革を交互に重ねていく作り方)でありながら大部分が硬い革を使った札(さね)、最も強度を必要とする腹と背中の一部に鉄板が使われている程度なんだそうです。
昔の甲冑はこれよりずっと鉄板の比率が多いそうなので、これはハイテク製品ですね。

ちなみに‥対照的なのが家康のいわゆる「歯朶具足」。
伊予札(小札を簡略化した作り)でありながら、胴体全部が鉄製。
総重量は20キロくらいあるそうで、丈夫であるばかりか着ているだけでもかなりのトレーニングになっただろうと推測されます。



さらに、忠次の甲冑は草摺り(腰の周りのひらひら)の数も当世具足のように細かく分けて身体にフィット感を出し、兜(スジ兜)も12枚の鉄板を32枚に見えるように加工してある(つまりそれだけ軽い)など、デザインは重厚でレトロでありながらしっかり最新の技術や流行も取り入れた、実は「おしゃれ」「ハイテク」な逸品だったようです。

むむ、今で言うなら一人和装で渋谷を歩いている老紳士‥でありながらその着物の素材はNASA開発の超軽量保冷素材、よく見るとベ○サーチってロゴが入ってるぞ!といったところでしょうか!?


ただ古いものにこだわるだけではなく、そこに合理性をとりいれるあたり、忠次の人柄が垣間見れるなあと思うわけであります。

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トリビア28「酒井忠次は目が見えなくても観察力が鋭いと秀吉から褒められた




『酒井忠次は目が見えなくても観察力が鋭いと秀吉から褒められた』

(出典・「酒井忠次公傳 他)

さて今回は四天王中一番小さな体格だった酒井忠次さんの話です(四天王展の甲冑を見たらすごく小さくてびっくりした‥)。
孔は忠次の数あるエピソードの中でこれが一番好きだったりします。


酒井忠次は晩年秀吉の招きで京都に移り住み、目を患いながらも静かに余生を送ったとされています。
主君との不仲説などもありますが、実際は秀吉から
「若い武将たちにベテランの武勇伝を聞かせてやってほしい」
というたっての頼みで招かれたようです。

そんな中、秀吉は九州の名護屋に朝鮮出兵の玄関口とするべく城を築きます。新しい城に到着した秀吉は部下に

「城に架かる橋の渡り初めには誰を申し付けるべきか」

と問いかけました。
諸大名の先頭に立って歩く栄誉ある役目、みんなは当然ナンバー2の徳川殿だと思ったのですが‥
秀吉はあえて酒井忠次を指名しました。

すでに隠居して、しかも秀吉の直臣でもない忠次の指名‥ちょっとびっくりする大名たち。

当時酒井忠次66歳。家康について九州まで来ていたのですが、すでに目もほとんど見えず、一人家康の宿舎で留守番していたのでした。
かつての有名武将とはいえ、すでに彼は「過去の人」でありました。

そんなときに突然命ぜられた今回の大役。

家康は手づから忠次の装束を繕い、かつては父とも兄とも頼んだ自らの家老を秀吉の前に進ませてやります。
やがて忠次は小姓2人に手を引かれながら、橋を渡ります。
それに続く秀吉と、家康・利家ら諸大名の行列。忠次のペースに合わせているので、かなりスローな行進です。


その中ほどで忠次は立ち止まり、橋の反り具合、堀の様子などを褒めました。
すでに目はほとんど見えないのに‥。驚く大名たち。

それから門の前に来て門の彫り物について小姓に尋ねました。小姓が
「梧に鳳凰の由に候」
と答えると、忠次は後ろの秀吉に向かい、

「御門の格好、残るところ御座なく候(←この辺の訳し方がわかりませんでしたので原文のまま書きます)。
ことに彫り物は唐の鳥、まことにめでたきことですな。殿下は唐までもお手に入れる(唐鳥=唐取り)ということですな。」

と賞賛すると、秀吉は非常に感じ入り

「左衛門尉(酒井忠次のこと)でなければ、このように心配りをして渡り初めをするものはおらぬであろう。さすがなり!」

といって老いても変わらぬ忠次の勘の鋭さ、頭の回転の速さを大いに褒めました。
並み居る大名衆もこれには大喝采したといいます。

忠次、かっこいい!
きっと若いころから頭の回転の恐ろしく鋭い人だったのでしょう。それがために非情なこともしたけれど、それでも家康にとっては忠次は得がたい人材だったのでしょう‥。
と同時に、遊び心も忘れない「田舎の面白じいさん」でもあったんじゃないかなあ。
視力を失ってもまだまだバイタリティにあふれた食えないじいさん‥(実は隠居してからも侍女との間に子供作ったりしてるしね‥ごほごほ)。
案外忠次の隠居生活はにぎやかだったのかもしれません。


カット解説‥「四天王展」で見た、忠次の軍配。一つでいろいろ便利!まさに合理主義‥というか、コワザの効いたものに愛を感じる性分だったのかなあ。
現代で言うなら万能ナイフ?(缶きりとか、コルク抜きとか付いてる奴)とか無意味に集めたり、システム手帳とか携帯とかの機能をほとんど使いこなしたりしてたかも。

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トリビア13・酒井忠次は狂言で味方を励ましたことがある

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『酒井忠次は狂言で味方を励ましたことがある 』

(出典・「酒井忠次公傳」桑田忠親 先求院堂宇修繕後援会)

戦前(昭和14年)に出た酒井忠次の伝記からのエピソードです。ですので歴史学的に見てどうのというより、
「こんなおもしろい言い伝えがあるんだ」
くらいに受け取ってくださいね(^^)。


長篠の戦いでのこと‥

忠次は別働隊を率い、武田軍のいる鳶の巣山を奇襲すべく向かっていました。

ちょうどその日は嵐。
木こりしか通らない道をよじのぼって武田軍の背後に出た別働隊兵士たちはへとへとに疲れ果てていました。

そこで忠次は驚きべき行動に出ます。

何と、副将の松平伊忠(本では松下家忠となっていましたが、史実によると深溝松平伊忠)らとともに兵士たちの前で

「猪の首の狂言」

を踊ったのです(!)

人々は大笑い!すっかりつかれも取れ、気を散ずるを得た、といいます。(柏崎物語)


おかげで忠次たちの奇襲は大成功。武田軍は前方の織田・徳川軍に突っ込むしかなくなり、次々と鉄砲の餌食になっていきました‥。


敵陣を前にして兵士たちをリラックスさせるために、部下とともに狂言を舞っちゃうご家老‥。

すごいですね忠次!いくら身分制がゆるい戦国でも(いや、現代でも)ここまでする管理職はそうそういない‥はず!
さすがは徳川「第一のおとな」!


こんな上司、あなたは好きですか?

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トリビア12・酒井忠次は太鼓で味方を励ましたことがある

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『酒井忠次は太鼓で味方を励ましたことがある』

(出典・童門冬二「家康名臣伝」東洋経済新報社・ほか)

酒井忠次という人をよく表すエピソード。ご存知の方は飛ばしてください‥。

家康生涯一度の大敗北と言われる三方が原の合戦直後のこと‥

命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康。武田軍は城へ迫っている!しかし味方の士気はこれ以上にないほど下がっている‥徳川軍はまさに絶体絶命のピンチ!

‥というとき!

家老の酒井忠次は何を思ったか、浜松城の櫓に駆け上ると、そこにあった陣太鼓を勢いよくたたきつづけました!

この太鼓が敗戦で意気消沈していた兵士たちを励まし、城はまるで生き物のように活気付いてきたのです。

追撃してきた武田軍もこれを見て

「あの城にはまだ伏兵がいるにちがいない」

と思いこみ、城を攻めるのをあきらめたという‥。

「酒井の太鼓」として歌舞伎や映画などにもなっている有名な話。

何と静岡県磐田市にはそのとき使われた太鼓が現存しているらしいです。

さらに、このとっさの機知によって忠次は大いに出世したということで「出世太鼓」というお菓子まであります。

http://www.marutokobe.co.jp/taiko/taiko.html

四天王の中では一番年上で他の三人に比べるとどうも陰が薄い忠次ですが、武骨な三河侍の中にあって文芸にも造詣深く、当意即妙のユーモアや機知で何度も家康の危機を救っています。

多分一緒にいて一番楽しい人なんじゃないかなあと私は思うのです(井伊様は好きだけど、ぜったい二人きりになりたくない)。

主君(家康)のキャラがああですから、家来もいろいろ助かってたんじゃないでしょうか。

「信康事件」で家康の息子を見殺しにしてしまったこと(わざと信長に殺させた説もあり)さえなければ、もっと人気が出たと思うんですが、いかがでしょう。

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トリビア9・酒井忠次の駄じゃれが正月の門松のもとになった

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『酒井忠次の駄じゃれが正月の門松のもとになった 』

(出典・「家康十六武将」徳永真一郎(毎日新聞社)ほか)

これは結構有名な話なのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが‥。

家康がまだ武田勝頼と交戦中だった頃、正月に武田方から年賀の使者がやってきました。

そのとき使者が持ってきた句を見て、三河侍たちは激怒!

松枯れて 竹たぐひなき あしたかな

松は松平、竹は武田をひっかけてこちらを揶揄した句だったのです。
しかしすかさず徳川「第一のおとな」、家老の酒井忠次がこう返事をしたためて送り返したそうです。

松枯れで 武田首なき あしたかな

これには双方、「うまいことを言うなあ」と拍手喝さい。
この忠次の句が徳川の運を開くきっかけになったというので、以来徳川家では正月の松飾の竹の先を切る習慣となり、それが門松のもととなったのだそうです。

この3年後に武田は本当に滅んでしまうので、のんびり句なんか詠んでる場合じゃなかったんですけどね、武田は。

ちなみに忠次はこのほかにも即席の芸で皆を笑わせたり、場を和ませたりというエピソードが多くあります。
家老でありながら徳川家の癒し系的キャラといったところでしょうか。

徳川四天王を戦隊ものにたとえると、まず間違いなくカレーを食べる人(イエロー)でしょう‥。

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