みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア39「鳥居元忠は鉄砲玉を…」

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『鳥居元忠は鉄砲玉を拾わせて部下を守ったことがある』

(出典・・重誠社「鳥居元忠」和田兼三郎 大正11年)

北条攻めの時のこと。

城にこもった敵が激しく銃弾を浴びせかけてきました。兵士たちはパニックになり、あるものは撃たれ、あるものは逃げ惑うばかり。

 しかし、それを見た元忠は何を思ったか兵士に
「皆の者、銃弾を拾え。」
 と命じたのです。

「!???」
うちの殿は何言ってるんだ???

しかし容赦なく撃ちかけて来る銃弾の中、兵士たちはわけも分からずとりあえず命令に従います。
鳥居隊はさながらミレーの「落穂拾い」状態…。

 すると…
城兵が撃った弾は味方の兜の上を掠めていき、味方はその虚に乗じて堀際にたどり着くことができたのだそうです。


 ただ「あわてるな」「伏せろ」というのではなく、具体的な目的を指示することで部下をパニックから救った元忠。トリビア37でもご紹介した元忠の見事な人間心理操作術(?)がここにも出ていますね。

後年…。
家康が関ヶ原の前に(敵に囲まれると分かっている)伏見城に元忠を残したのは「石田方に怪しまれないくらい身分が高い者で、殺してもそれほど惜しくない奴を選んだ。」なんてことも言われますが、実は彼のこんな能力を買ってのことだったのかもしれません。
50年来の男の友情というのは、そんなに単純なもんじゃない…と思うのですよ。
「彦右衛門(元忠)なら、どんなに絶望的な戦いでも最後まで部下を統率してくれるだろう。」

籠城した元忠率いる千八百名の兵士が、四~五万とも言われる西軍を相手に一週間も持ちこたえたのは、伏見城の堅固さもさることながら、こんな元忠の能力と兵士から元忠への厚い信頼があってこそだったと思うのです。

↑画像解説:命令だからと鉄砲玉を拾っていたら、楽しくなって思わず一生懸命拾ってしまった部下たち。城攻めは…?
三河の武士は一途な武士よ~♪

鳥居元忠鳥居元忠
(1996/10)
志津 三郎

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トリビア37「鳥居元忠はつまようじで‥」

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『鳥居元忠はつまようじで兵士たちのいさかいを鎮めようとした』

(出典・・重誠社「鳥居元忠」和田兼三郎 大正11年)

 天正三年長篠の戦の時のこと。
 家康軍の兵士たちの間ではいさかいが多かったそうです。
 こんな時、普通の大将なら「喧嘩するな!」「仲良くしろ!」と叱りつけるところでしょうが…。

 元忠、家康にこうアドバイスしたそうです。
「兵士たちにこう命じてみてください。
『皆の者、楊枝を使え。
 やがてはお前たちも首になるかもしれないのだから(身だしなみくらいしっかりしておけよ)』と。」


…はい?
思わずきょとんとする家康とその家臣。それと兵士たちのいさかいと何の関係が?
 
 元忠いわく、
「楊枝を使っていれば兵士たちのイライラも吹き飛んで軍備えもきちんと整うでしょう。
 なぜなら揉める時の人間の顔というのは口から泡を吹いて大変ジジムサキ(←原文にこう書いてあるのです)ものです。普段から楊枝を腰に指させ、身だしなみに気をつけさせれば(そんな醜い顔をすることもなくなり)素行も良くなるというものです。


 この命令が本当に実行されたのか、そしてはたして備え振りが良くなったのかは記されていませんが、こんなユニークな命令を提案する元忠、400年前にすでに「身だしなみの乱れは心の乱れ」ということを知悉していたおしゃれな人だったのかもしれません。
 また、「喧嘩をするな」とただ叱るよりも、具体的な行動を命じて兵士たち自身の意識に訴えるというやり方など見ますと、元忠という人は他人の心の機微が分かる、気配りのできる人だったのではないかとも思います(だから家康から何も言われなくても伏見城の留守居役を引き受けてしまったのかも…)。

 ちなみに当時のつまようじは木枯らし紋次郎がくわえているような20センチくらいの長ーいもので、今のようなものが出てきたのは江戸時代からなのだそうです。

 それにしても、徳川軍が食事の後みんなでシーハーシーハーしているのを想像するとちょっと楽しいですね。


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トリビア8・忠臣蔵の大石内蔵助は鳥居元忠の子孫




『忠臣蔵の大石内蔵助は鳥居元忠の子孫』

(出典・歴史街道2005年11月号)

この前のトリビアで言っていた、「元忠の超有名人子孫」というのがこの人です。

まあいまさらこの子孫について説明することもないですが‥。そもそも何故元忠の子孫が広島に!?

‥元忠の鳥居家は千葉の大名ですが(その後あちこち転封)、元忠の息子の一人が関ヶ原の後、浅野家に寓居しており、その娘が大石内蔵助の祖父である大石良欽(よしたか)の妻となったのだそうです。

つまり、大石内蔵助は鳥居元忠の孫の孫ということになります(のび太くんとセワシ君の関係ですね)。

ちなみに元忠は関ヶ原を前に京都伏見城の留守居役を勤め、挙兵した石田三成の4万の軍勢をわずか1800人で支えて討ち死にしました(もちろん、そうなることを覚悟の上で留守居役を引受けたのです)。

忠義者遺伝子というのがあるのかはわかりませんが、大石の討ち入りの決意の裏にはご先祖様の影響があったのかもしれません。

ちなみに三河では吉良さんは名君として知られておりまして、12月ともなれば複雑な思いでテレビを見ておるのですが、大石も所詮三河者だと知ると何だかちょっとうれしくなります(でもやっぱり複雑だ)。

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トリビア4・唱歌「箱根八里」の作者は鳥居元忠の子孫




『唱歌「箱根八里」の作者は鳥居元忠の子孫』

(出典・徳川恒孝氏講演会・「大名鳥居家展」(壬生町))

「箱根の山は天下の険~」

 でおなじみの唱歌「箱根八里」(作曲:滝廉太郎)を作詞したのは当時東京音楽学校の教授をしていた鳥居忱(まこと)氏でした。

 ちなみに鳥居家は明治になって子爵となり、外交官や日本メロン協会の会長など、ハイカラな職業の方が出ています。
 江戸時代でも蘭学を取り入れ種痘をいち早く行うなど、開明的なお家柄だったようです。


 皆さんもこれから箱根駅伝をご覧になるときは伏見城での鳥居元忠の壮烈な戦死に思いをはせてみましょう(^^;)。

もう一人、鳥居元忠の子孫で超有名人がいますが、それは次の機会
に‥。

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