みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア26・忠勝は幼い頃、7~8キロを2時間で走っていた




『忠勝は幼いころ、7~8キロを2時間で走っていた』

(「知っておきたい岡崎の人物伝第12号・本多忠勝」市橋章男・情報文化社)


さて、今回のトリビアは出典の筆者の方から直接いただいたものです。

以前、孔のHPの「家康行列レポート」で、岡崎に

「平八稲荷」

というものがある、とご紹介しましたが、それについて何人かの方からメールを戴きました。

その中で、なんと以前家康行列レポートの中でご紹介した本「知っておきたい岡崎の人物伝」の筆者の方自らがメールを下さり、平八稲荷のあった場所に関する、忠勝のエピソードを教えてくださいました。
幸いネットでご紹介する許可を戴けましたのでご紹介させていただきます。


忠勝(幼名は鍋之助)が生まれてすぐに父を戦で失ったことは四天王ファンのみなさんならご承知のことでしょう。

では9歳で駿府の竹千代のもとに行くまでの数年間、忠勝がどうしていたか‥?
実は‥後の「合戦師」本多忠勝を作ったのはまさにこの数年間だったのです!


以下、戴いたメールからの抜粋です。

「平八郎は幼年のころ、欠城の叔父、本多忠眞のもとで育てられていました。

忠眞は平八郎をわが子のように可愛がり、厳しく育てたようですが、
主君(竹千代)に仕えるためには、走ることができなければだめ、ということで

欠城(現在の大平八幡宮あたり)から、能見松平重吉の城まで使いにやらされたそうです。

平八郎の「マラソンコース」は欠城~能見城~道草~欠城。

往復7~8キロもあるコースを、今で言うと幼稚園の子供が2時間程度で走ってきた勘定です。

能見の松平重吉も平八郎を可愛がったことでしょうね。」


‥私が見つけた、かの「平八稲荷」、実はその場所というのは奇遇にもその松平氏の居城の城外だった場所だそうです!


さらに先生のお話によりますと、
「「平八稲荷」という名の祠は、実は全国にいくつかある」とのことです。

また、別の方からのメールによりますと、「平八稲荷」というものは足助(愛知県)に起源があるものだそうです。


‥忠勝ゆかりの地ということで誰かが平八稲荷をもってきて建てたのか、
もともと足助から来たお稲荷さんがそこにあり、それを見て鍋之助が
「俺も立派な平八郎になるぞ(平八郎と言う名前は忠勝の五代前くらいから本多宗家の跡継ぎに使われています)!」
と思いながら走っていったのか。

う~ん、たかが神社一つですが、歴史のロマンをかきたてられますね。
調べてみるとなかなか奥が深そうです、平八稲荷‥。


なにはともあれ、
「天才の陰にスパルタ教育あり」‥。

ましてや戦国、ましてや三河。

文字通り「生き残る」ために、叔父も母も必死になって鍋之助少年を育てたのでしょう。

何しろ本多家では1545年(忠勝の生まれる3年前)、忠勝の祖父・忠豊が主君広忠の身代わりとなって安祥城で死亡。

その四年後には父・忠高がわずか22歳で同じ安祥城に単騎駆けし、敵の矢を受けて死亡しているのですから‥。

(だからてっきり忠勝は一人っ子なのかと思いきや、実は姉妹が二人もいるらしいですが、まあそれは下世話な話‥ごほっ)。


いまやゲームで大人気・戦国最強の武将の一人といわれる本多忠勝。

しかし彼はそこに突然現れたのではなく、本多一族、ひいては三河の悲劇的な歴史が生み出した一つの結晶、芸術品なのかもしれません。

ちなみに出典とさせていただいた市橋章男先生の「知っておきたい岡崎の人物伝」シリーズは岡崎市内の書店で購入可能だそうです。

第12号・本多忠勝編には今回のエピソードももちろん収録されております。
忠勝のほかにも石川数正・井伊直政・鳥居元忠などが発売されていて、どの巻も綿密な現地取材と歴史上の人物への愛情あふれる文章で読み応え十分です。
岡崎に行かれた際は(また、岡崎に知人友人のいる方は)ぜひお求めになってみてください。


↑イラスト解説・「鍋之助・初めてのお遣い」
どーも忠勝と言うとあの般若みたいな肖像画のイメージが強くて、「あどけないがきんちょ」時代があったとはなかなか思えない‥。

高校時代のゴジラ松井みたいな(ごめんなさい)子供時代だったんじゃないかしら(松井選手も今は髪も伸ばしておしゃれになりましたよね‥)。

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トリビア20・「忠勝が使っていたといわれる刀のツバには変な言葉が書いてある」




『忠勝が使っていたといわれる刀のツバには変な言葉が書いてある』


(出典・「特別展 本多家とその家臣団」三河武士のやかた家康館)


今日は現在開催中の「家康と忠勝展」で展示している伝・本多忠勝所用の刀のツバについてです。
図録にも載ってて、展示もしているくらいですから、これまでの羽の陣羽織や掛け軸の絵よりは忠勝のものという信憑性があるの‥でしょう、きっと!

このツバ、とにかくでかい!
CD(シングルではなく、普通のアルバムサイズです)よりちょっと大きいくらい(直径14センチと図録にはあります)。

そこに透かし彫りでぐるっと

「すくんうきよやいまわ満まるこつかう」

とあります。


???なにそれ‥。

古来よりさまざまな解釈がされているそうですがいまだに定説がないとのことです。

しかし、自分の鎧も使いやすいように鎧師にわざわざ注文つけてカスタマイズしていた忠勝のこと、自らの持ち物につよいこだわりがあったことは間違いないでしょう。

この言葉にもきっと彼にしかわからない(戦場で彼を奮い立たせるような)意味があったに違いありません。

皆さんも忠勝になったつもりでいろいろ考えてみてくださいね。


↑使用例(?)
こうして敵が混乱に陥った隙にばっさばっさと切り倒す。57戦無傷の記録はこうして作られた!!(そんな忠勝はいやだ)。

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トリビア19・「本多忠勝が刀傷を負ったという言い伝えがある」




『トリビア19・本多忠勝が刀傷を負ったという言い伝えがある』

(出典・「家康の愉快な伝説101話」御手洗清/演習伝説研究協会)

「生涯57戦して一度も刀傷をおったことがない」のはうそだった!?そんなばかな!!

‥とはいっても民話での話。だから「こんな言い伝えがあるんだ』くらいに聞いて下さいね。


先日見つけた、静岡に伝わる家康の伝説・民話を集めた本の中に一つだけ忠勝が出てくるものがありました。
どんな民話かといいますと‥。


静岡に「池谷(いけがや)」という姓の人がたくさんいる村があったそうです。

その昔、家康は戦に負けて、本多忠勝とただ二人で大勢の敵に追われて逃げておったそうです。忠勝と一緒でもかなわない敵‥すごい数ですね!

ちょうど農作業をしていた農夫に頼んで、忠勝と二人、傍らにあった萱(かや)の束の中に隠してもらいました。
ぎゅうぎゅうぎゅう‥。


追ってきた敵はそこに巨大になった萱の束を見つけます。
「これが怪しい(そりゃ思いますって‥)」

敵兵はざくりと槍を突き刺しました。
‥こういうときの定番といえば定番ですが、槍は忠勝の足に刺さってしまいます。

ぐさ!(痛い、痛ーい!)

しかしその時忠勝少しも騒がず(ここで騒いだら忠勝じゃない)、冷静に着物のはじでやり先を握り、すっと血を拭いてやりました。

そしてやはりこういうときの定番といえば定番ですが、いくら何でも人を刺した手応えがあるだろうとかそんなことは一切気がつかない敵さん。

敵は槍に血のついてないのを見ると、ここにはいないとあきらめてそのままいってしまったそうです。

助かった家康は萱と、その向こうにある池を見て

「お礼に名字をやろう、いけがや(池・萱)と名乗るがよい。」(けちだなーと思うかも知れませんが、昔は名字がもてるだけですごい名誉だったそうです)。

と言って忠勝と一緒に落ち延びていったといいます。めでたしめでたし(?)。


この本にはこのような家康伝説101話がおさめられています。
本の解説にもありましたが、ほぼ8~9割の話が家康が戦に負けてたった独りで逃げている‥という設定。
家康の完全な敗北は三方が原くらいなんですが、どういうわけか武将らしい勇ましいエピソードではなく、負けて逃げ回っているものばかりだそうです。

これは庶民が家康公に対し他の英雄にはない、親しみを感じていた表れではないか‥というのがこの本の著者の方の説でした。

他にもけっこう面白い民話が載ってて、本当なら全部ご紹介したいところなのですが、さすがに無理ですので、また静岡の本屋に行かれた際には探してみてください。

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トリビア17・本多忠勝のかいた絵とされるものがある




『本多忠勝のかいた絵とされるものがある』

(出典・家康忠勝両公三百年記念祭写真帖(大正4年)・本多平八郎忠勝傳(昭和35年初版))

お久しぶりです。最近仕事の関係でなかなか更新できなくてすみません。ネタがなくなったわけではないんです、決して‥。

でも忙しいといいながら昨日とうとう行って来ましたよ、岡崎「家康行列」!その模様はまたサイトにてご紹介しますので、お楽しみに(いつになるんだろう‥)。

←ちなみにこれはその時のヒトコマ。岡崎市民における忠勝の認知度なんてこんなもんす(笑)‥。


ところで今日のトリビアは、この鹿さん、いや忠勝の描いた絵というのがある、というものです。

どんなものかというと

形式は掛け軸になっていて、月を観ながら布袋さんのような人が座っている図柄です。何とご丁寧に自画讃まで入っています。

(いつもながらネットに出せなくてすみません‥ご興味のある方は岡崎城隣の龍城神社で売っている「本多平八郎忠勝傳」をご購入下さるか、岡崎図書館家康コーナーの「家康忠勝両公~」をご覧下さい)

絵は‥手馴れた感じでさらさらと描いたかんじで、印刷が悪くてよく分からないのですが、まあまあ上手‥?といったもの。

同時代には宮本武蔵のように書画と剣の両道に秀でた人物もいましたから、忠勝ほどの武人ならば絵のひとつも描いたとしても決しておかしくはないかもしれません。現に晩年の趣味は仏像彫りだったといいますし。

この掛け軸、少なくとも昭和35年発行の「本多平八郎忠勝公傳」には堂々と「忠勝公真筆」などと紹介されています。

でもどういうわけか最近の忠勝関連の書籍、展示には出てこない‥。
私の持っている資料にないだけかも知れませんが。もし最近5年ほどの資料で紹介しているものがありましたらお知らせください。


あるいは戦災で焼失したのかもしれませんが、やはり研究が進んでどうも怪しい、ということになったのかもしれません(たぶんきっとそうだろう)。


私としてはこの絵にしろ、トリビア2でご紹介した鳥の羽根でできた頭巾にしろ、怪しくてもうそでもなんでもいいから一度実物を見たいと思うのですが‥。いかがなものでしょう。


大名家の子孫の方の本など読みますと、先祖の品の整理、保存、相続税がかなり大変だということですが、こんな

「あやしいいわれの品々」

がたくさんあるかと思うと非常にうらやましくなりまする‥。

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トリビア7・岡崎公園の男子トイレの表札は鹿角兜の絵になっている




『トリビア7・岡崎公園の男子トイレの表札は忠勝の鹿角兜の絵になっている』

(出典・なし)

画像アップロードが続いてすみません(え?私の絵よりこの方がいいですか?やっぱり‥)

岡崎公園といえば愛知県岡崎市にある、岡崎城の天守閣のある城址公園ですが‥

この公園の北側のトイレはなんと
←のようになっています。

さすがに兜の絵だけでは心配なのか、すぐ下に普通の男性の表示があるものの、
かなり正確な鹿角兜が描かれていますね。

これはすぐ脇に本多平八郎忠勝の銅像が立っているためで、トイレにもご当地らしさを出そうという岡崎市の心意気が読み取れます。

さらにうがった見方をすれば、長い槍を手に牡鹿の角の兜をかぶった忠勝は

「男性らしさの塊」

であると考えた‥とも言えますね(がふっ)。

その意味で家康の絵など描くよりはるかにわかりやすい「男性用」表示であるといえます。たぶん‥。

でも訪れる人で本多忠勝を知っている人がどれだけいるのだろう。

忠勝像を見ても家康の若い頃だと思っている人もいるんじゃないかなあ(昔の私がそうでした)。

ちなみに女子トイレの方は平安っぽい扇子の図案になっています。

岡崎公園のトイレに行かれたときには忠勝の雄雄しい勇姿に思いをはせてみてください。

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