みかぶしトリビア・リニューアル

三河武士に関する意外な(ちょっとうさんくさいことも含めて)真実。

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トリビア38「直政の家は家康の屋敷の…」

tatebasyakuyaku

『井伊直政の家は家康の屋敷の庭伝いに行けるようになっていた』

(出典・・『天元実紀』)

以前孔が「この話面白いんだけど出典が分からないのでトリビアに書けないよう!」と日記にさりげなく書いていたのをさや様が覚えていてくださって、話の出所を教えてくださいました(ありがとうございます!)。


慶長六年(1601)十月十三日、家康は佐和山の直政の城にやってきました。
直政は頭役などを引きつれ中門まで出迎えます。
やがて家康の輿があらわれ、皆いっせいに平伏。…ところが!

直政の足軽の一人が突然首をもたげ、家康の輿に向かって何事かを大声で叫んだのです。

もちろん足軽はその場で取り押さえられます。天下人に声をかけるなど無礼千万、打ち首にされても文句は言えない所業です!
しかしその足軽、悪びれるどころかけろりとしてこういったといいます。
「それがし、家康様に最近お目にかかっていませんでしたので
、「お久しぶりにお目にかかりまする!」
と申し上げたまででござる。」

頭役は驚きあきれて
「こいつは頭がおかしいんだ。どうしたものか…。」
と同僚と相談しているところへ…

本丸の直政から頭役に呼び出しがきました。
「ひいいいっ、きたあ~!
うちの殿(直政)のことだ、あんな無礼を働いた奴を生かしておくはずがないのは当然として、責任者の俺たちも絶対ただではすまないぞ…!

びくびくして参上した頭役に訊ねる直政。
「先ほど大殿に「お久しぶり」とか申したあやつはどうしておる。」
「は…しかじかで捕まえてふん縛っておきました(きゃああ~声色が穏やかすぎる~こわいよお!)!」

すると…直政の口からは意外な答えが。
「いやいや、それにはおよばぬ。実は家康様がの、そやつに新たに知行を与えよと仰ってな。ま、そんなわけで百石ほど与えてやれ。」

「はあ???」
…わけがわからないまま番頭はとりあえず安心し(そしてたぶんかなり羨ましがって)、その足軽にその旨申し渡しました。

さて、家康の前に再び参上した直政。
家康「あの足軽にはどれほど与えてやったかの。」
直政「はあ、百石ほどやっておきました。」
家康は頭をかいて
「よくよく役に立たん奴なんじゃなあ…
と、直政とふたりで苦笑い。

実はこの足軽、直政が家康の小姓をしていたころから仕えていた者。直政が家康の寵愛深かったころ、
家康は自分の家の庭近くに直政の家を作らせ、そこにちょくちょく通っておりました
この者も直政に付き従って御前に出ていたので家康も覚えていた…というわけだったのです。


…いかがでしたか?最後にさりげなーくとんでもないことが書いてありましたねえ(笑)。
ちなみに原文では「御庭ちかき邊に直政が家居作らしめ折々渡御ありし」となっているそうです。「お庭近き辺り」…つまり庭伝い、ですね。
誰にも知られず通えるように…って、家康何やってんだあ!

さや様からのコメントには『因みに天元実紀は小和田哲男先生の本によると「家康贔屓」な記述らしいです。(贔屓なのにこれを書くのか…と思いました…)』とありましたが、本当にそうですねえ。
直政もいやだったでしょうねえ。40過ぎて昔のあれこれを知ってる奴が、しかも家臣たちの見ている前で出てくるとは…気の毒に。

いやはや。タイムマシンがあったらその足軽の話、ぜひ聞いてみたいです(いやあの、別に変な話をじゃなくて、少年時代の井伊さんの様子などをですよ!)。


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トリビア36「井伊直政は大久保彦左衛門に‥」

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『井伊直政は大久保彦左衛門にちびたカツオ節をもらったことがある』

(出典・・「翁草」・PHP文庫「戦国時代なるほど辞典」)

 この間トリビア35で大久保忠世と井伊直政のエピソードを書いたら、ほた様から素敵なトリビアネタをいただきました(いつもありがとうございます!)。
 そのお話と、孔が調べた「翁草」のお話とを合わせてお送りします。

 直政が江戸滞在中に病になり伏せっていたところへ、なんとあの大久保彦左衛門が見舞いにきたのだそうです。

 彦左衛門、
「今ではお互いの身分もかなり違ってしまったが、昔は互いに馬を並べて戦功の優劣を競ったものじゃ。昔の友人のよしみを忘れられずにお見舞いに参った。」
 と語りかけると、直政も
「そのとおりじゃ。昔を思い出すのう。」
 と思わず涙を流したといいます。←本当にこう書いてあるのです。

 直政‥きっと日ごろの行いが悪くて誰もお見舞いに来なかったんだねかわいそうに(←エラー)病気で気が弱くなっていた時の旧友の訪問に、日ごろ張り詰めていた心がつい緩んで、さしもの赤鬼も胸が熱くなったんでしょうね。ええ話や


しかし!あの彦左衛門がここで終わるわけがなかったのです。

 直政からのいろいろなおもてなしもあり、数刻も話が続いた後(直政、よほどうれしかったんだねえ‥お見舞いが)、
「これを差し上げますので、朝夕召し上がってくだされ

 彦左衛門が差し出したのはなんとカツオ節!!
 しかも3~4寸という小ささ(…)だったそうで。

「‥‥‥。」
 思わず返答に困る井伊直政に彦左はこう言ったそうです。
「大身の大名となって食べ物には不自由しないでしょうが、贅沢な衣食を改めてはどうですか。
拙者などは毎日カツオ節を食べているゆえか、病など致しませんかっかっかっ!」

 ‥情報をお寄せくださったほた様もメールで「見舞いに来てこの不遜な態度!いかにも三河武士ですね(笑)」とおっしゃっておられましたが、全く彦左、何しにきたん‥!
しかも、「人斬り兵部」井伊直政にこの態度とは!(しかも泣かせておいて!病身を押しておもてなしまでさせて!)
 このときの直政の反応は特に記されていませんが、傍で見ていた井伊家家臣たちはもう生きた心地がしなかったでしょうね~。


 ‥出世してしまった旧友のところにやってきて、ここぞとばかりにくどくどといやみ(本人はそう思ってないが)を言いにきた彦左衛門。
 でも。
 そのまま無事にすんだということは、ひょっとしたら直政もそのへんのところは承知していたのかもしれません。
「ま、昔忠世に世話になったこと(トリビア35参照)もあるしな‥弟の愚痴くらい聞いてやるか。それにしても説教が長いところだけは兄貴に似てやがるな~こいつ。」
 とか思いながら、めずらしく我慢して(たぶん右から左へ)聞いてたのかもしれません。
 そう考えるとちょっとほほえましい光景だなーと思えてきますが、どうでしょう。

 まあ、この話は後世の創作なのかもしれませんが‥
 こういう話が伝わっているということは、庶民の感覚として、直政のような才覚で12万石になった、ある種スーパーマン的人物を「すごいなー」と思う反面、それをちょっとへこましてやりたい(彦左衛門にとっちめてもらいたい!)、という人々の願いが込められていたのかもしれません。
 いつの時代も彦左衛門は人気があるはずだよ‥。

↑イラスト解説・どんなに若いころの話でも、彦左衛門というとどうしてもこの姿が‥。
 

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トリビア35・「井伊直政は大久保忠世に‥」

35


『井伊直政は大久保忠世に味のない鍋を食べさせられたことがある』

(出典・・桜田晋也「芋汁武士道」祥伝社ほか)

大久保一族の首領・大久保忠世は面倒見のいい人でした。

一方、井伊直政(当時はまだ万千代)。遠州人でありながら、たった一人で三河武士の中に飛び込んではや数年。
三河譜代の中にも溶け込めず、さりとて溶け込む努力もせず(たぶん)、なーんとなく浮いた存在であったと思われます。一方、殿からひいきにされるたびに、譜代からは陰口を叩かれます。いじめもあったでしょう。
ある戦でのこと。直政に、忠世からの使いが来ました。
「ただいま皆で集まって甘(薄塩)料理の最中でござる。井伊殿もぜひおいでくだされ。」

気は進まなかったのですが、大久保党の首領の誘いとあれば行かないわけにもいきません。

忠世の陣中では、三河譜代の若い衆が集まって鍋パーティーの最中でした。
さっそく万千代、勧められるままに一口。     ‥んが!

「うげっ、まずっ!!」

汁にはぬか味噌のほか味がなく、芋の他、はっぱ、茎などが一緒に煮込んでありました。
‥しかし、皆はろくに煮えてもいない汁を手に取り、おいしそうに食べています。「???」

あまりのまずさに椀を置いてむっつりしている万千代に忠世がニコニコと
「おや、井伊殿はなぜお食べにならぬ」
「‥もう少し味をつけたらよかろう、味噌とか、しょうゆとか‥」

それを聞いた他の三河侍はここぞとばかりに
「さすが万千代殿はお若いのに美食家であることよ。ははは。」
「陣中にしょうゆなどあるわけもない!これだからよそもんは。」
「‥(うるせー下賎の者どもが!)」

 しかし、忠世だけは笑わず、万千代に、
「この芋汁はまずいが、わし等の家来とその家族は、これさえ食うこともできないでおる。
なのにいくさとなれば、命を捨てて忠節を尽くしてくれる。
一方百姓はイモを作って主君に差し出して自分の口に入れることもならん。
大将たる者、この味を忘れず武道に励まねばならんのだよ。
だから我等はこんな芋汁を食うのだ。」

 と、諭したといいます。

 後年、大身になってからも直政(万千代)は「あの時の味が忘れられない。」と家臣に漏らしたといいます。

‥この話。見方によっては軽い体育会系いじめのようにも見えます。
‥わざわざ将兵がまずい鍋を食ったところで下々の者が潤うわけでもないし、無駄な禁欲主義、ただのマゾと笑うこともできるでしょう。
でも、忠世が本当に言いたかったことはそんなことではなく。

 忠世は仲間に溶け込めない万千代をわざわざ誘って
「三河武士として生きるための考え方・ものの見方」
を教えようとしてくれたのです。
なにしろ、ただでさえ分からない勇猛な三河者の思考回路(当時、三河武士は他国者にとって映画「300」におけるスパルタ軍並みに理解不能な別人種だった‥みたいです)。
他の三河者なら生まれながらに肌でわかっているものを、万千代はいきなり理屈で覚えなければならないのです。

助けたって見返りもない、さりとて従順でもないので、だれも相手にしない孤立した人間。
そういう人に手を差し伸べてやれる、忠世はそんな懐の深い人だったのでしょう。
一向一揆に加担して国を出た本多正信を家康に推挙してやったのも忠世でした。

そんな忠世のおかげか井伊万千代、のちの直政はやがて「譜代より三河武士らしい三河武士」となって家康に仕え、ついに譜代トップの地位に躍り出ます。
しかし、大久保家には悲惨な運命が待っていました。


後年、大久保忠世の息子、忠隣が政治闘争に敗れて失脚し(政敵はあの本多正信!)、身を寄せたのはなんと井伊家でした。
井伊家はすでに直政の息子・直孝の代でしたが、忠隣に五千石の扶持を与え、清涼寺の向かいに屋敷を建てて遇したそうです。
ひょっとしたら直孝は父直政からあの遠い日のことを聞いていたのかもしれません。

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トリビア32・井伊直政に夜這いをかけた武士がいる

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『井伊直政に夜這いをかけた武士がいる』

(出典・・「美少年日本史」「井伊軍志」ほか)

今回もほたさまから資料・ネタを提供していただきました。ありがとうございます!
‥えー、タイトルの通り、今回は衆道ネタです。苦手な方はスルーしてください(と言ってもたいしたもんではないですが‥)。

井伊直政に夜這い!!
あの、敵からは赤鬼と恐れられ、味方からは部下をばっさばっさと手打ちにするため人斬り兵部と恐れられた、あの井伊直政に夜這いをかける‥そ、そんな世にも恐ろしいことが出来るやつがいるのでしょうか!?

その猛者の名は安藤直次といいます。三河譜代で、歴戦のつわものと名高い豪傑です。

井伊直政は幼名を万千代といい、16歳の時から家康の小姓として仕えていた‥というのはご存知の方も多いと思います。
当時万千代は、生来容顔美麗なことに加えて、余りに家康が万千代をかわいがるので「あの二人ひょっとして‥」という噂が当時から浜松っ子の口に上っていました。
史実的にもそれを匂わすような話はいくつもありますし、かの『甲陽軍鑑』も万千代のことを「近年家康の御座(おざ)を直す。」(=お手つき)と書いています。

そんな万千代に対して直次は‥
「御愛童井伊万千代に恋慕、御小姓部屋に忍び込みたる儀之有(これあり)」(『旧談』)
という、大胆不敵なことをやっちまったんだそうです!

‥その後どうなったかは記述がないのでわかりませんが、万千代が撃退したのかもしれません(彼の性格からして半殺しか決闘か、ともかくお互い無傷では済まされなかったと思う)。

さて、この「夜這い事件」の後、家康はどうしたでしょう。
まさか自分の寵童に(未遂でも)手を出した部下をほっておくとも思えないのですが‥。

そこは家康。小牧長久手の戦いのおり、家康はなんとわざわざ安藤直次を召して
「初陣したばかりで未熟な万千代を指導し、手柄を立てさせてやってくれ。」
と懇切丁寧に頼んだそうです(「烈公閑話」)。

家康は直次に「万千代への横恋慕の情」があるのを知って、このように頼んだのでしょうか。
だとしたら、部下の「その気」まで利用して上手く使った、いかにも家康らしい冷徹な人材活用術と言わねばなりません。
直次はそれに応えて、みごと敵の大将を仕留めたそうです。
ただその時、万千代に大将首を取らせようと「万千代!万千代!」と呼んだのですが、当の万千代は敵を追いかけてどこかに行ってしまっておりました‥。

こんな安藤直次ですが、冷酷非情ともとれるほどの勇猛なエピソードが多い、硬派な「いくさ人」でした。
その経験と実力を買われ、晩年は紀州徳川家の附家老として家康の十男の頼宣に仕えました。

ある日、頼宣が怒って刀のさやで家来を殴ってしまいました。
その話を聞いた直次はやってくるなり主君の両膝をすごい握力でぐっとつかみ、その非を諭したと伝えられます。
頼宣は後年になっても、この時できたひざのアザを家来に見せ、
「このアザがなければ、今ごろ紀州藩はなくなっていただろう。」
と彼の忠義を懐かしんだそうです(↑イラストはその時の想像図です‥少し孔の偏見が入っていますが)。

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トリビア31・直政の屋敷跡は美白・美顔の聖地だった

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『直政の屋敷跡は美白・美顔の聖地だった』

(出典・「とうふ匠 清司」HP・「井伊軍志」ほか)


今回のトリビアはほた様からいただきました(ありがとうございます!)。


関ヶ原の後、上州高崎から近江の佐和山に入城した直政とその配下。
しかし当然ながらそこは敗戦の地。城は落城し、城下は荒れ果てておりました。

そこでやむなく直政とその家臣は、佐和山城の郭や武家屋敷を摂取、修復し、当分のあいだそこに住むことにしました(もちろん、このときまだ彦根城は影も形もありません)。

大将である直政の屋敷があったのは佐和山城の搦め手側愛宕山米蔵附属の曲輪だったそうです。
直政が住むようになってから、愛宕屋敷とよばれ、ここで直政は42年の短い生涯を終えたのでした。
(ちなみに愛宕山とは愛宕権現を祀る神社が敷地内にあったことからきているんだそうです)

‥と、ここまでがこのトリビアの前置きです

そのお屋敷跡ですが、現在仙琳寺というお寺になっております(開基は彦根藩四代藩主井伊直興の子、本空)。
境内にある恵明権現は、頭痛などの首からの上の病気にご利益があると言われ、かつては大勢の人が、豆腐を持ってお参りに来たそうです。
が‥
そこからいつのまにか、「美白・美顔」に効果があるということになり、彦根城下の乙女たちが色白の豆腐をお薬師様に供えるために日参するようになったのだそうです。

美白と直政。
一見奇異な取り合わせのようにも思えますが‥。
思えば。
直政が家康に取り立てられ、大出世の糸口をつかんだきっかけは彼自身の才覚、家柄のほかにその美貌も大きく影響した(まあ、戦国では珍しくない‥あれですね^^)といわれます。

とすれば!
恋の成就人生の永久就職を願う乙女たちにとっては直政はまさにカリスマ(?)!
彼女たちが直政の終焉の地に大挙して押しかけ祈るのはどうしてなかなか、自然の理といいましょうか、いいとこを衝いているのかもしれません。
そういえば‥彦根城にいるあのネコも「彦根のモチさん」といわれる美白(?)ぶりですね。


彦根城築城400年祭もあとわずか。
彦根城やひこにゃんもいいけれど、たまには秋深い佐和山の古寺を訪れて、美白を祈りながら直政の激しい生涯に想いを馳せるのもよいかもしれません‥。
追記:‥↑と、書きましたが、後日実際に仙琳寺に行ってこられた方のお話によると、寺内はかなり荒れ果てていたそうです!万が一行かれる方は十分にお気を付けください。

ちなみに「とうふ匠 清司」さんのHPはこちら(「とうふ匠 清司のこだわり」というページに仙琳寺の記事があります)。

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