
『敵の城下町のまん中を大行進した三河武士がいる』
(出典・・『慶長年中卜斎記』・近世日本國民史 家康時代上巻 關原役/徳富猪一郎)
さや様からのネタ提供です(いつもありがとうございます。遅くなって申し訳ありません)。
時は関ヶ原の合戦直前。石田一派と徳川方との関係がすでに相当悪化していた時のこと。
家康は近江の水口というところに駐屯しますが、そこの領主で実は石田一派の長束正家にあやうく暗殺されそうになりました。
しかし、家康だけは何とか長束の使者を騙して水口を脱出します。
…この辺りは有名なエピソードですのでご存知の方もいらっしゃるでしょう。
これはその後に起こった、いかにも三河武士!というエピソードです。
家康が先に水口を脱出した後。
忠勝以下徳川軍はいまだ内袋(滋賀の湖南市あたり?)に駐屯していました。
家康を取り逃がした長束。
「ここで家康の部下たちまでみすみす通すわけにはいかぬ!」…ある策をめぐらせました。
家康の後を追おうと街道に出る徳川軍、突然長束隊に行く手をさえぎられます。
「馬に乗っている人間はここを通ってはならぬ!」
…つまり軍隊(=徳川軍)は通らせないという長束の指令でした。
「ははは、無理に通ろうとしたらこれ幸い、命令違反の咎で一網打尽にして家康の子飼いの武士どもを根絶やしにしてやるわー!」徳川軍、四面楚歌です。
一夜にして完全に敵になってしまった国の領内。しかも大将は不在。味方は少人数。普通の将兵だったらどうしたものかとうろたえ悩むところでしょう。中には敵に降伏する者だって出るかもしれません。
だがしかし、彼らは上方衆の想像を超えた異人種、三河武士でありました。
忠勝はそこにいた諸将の鉄砲隊に命じて火縄銃に火を点けさせました。そして…
騎馬隊を下知し、長束の城がある水口の町外れの河原に一列に勢ぞろい。…明らかに長束軍の命令無視です。
完全な臨戦態勢です。
「すわ戦か!?」長束軍にも緊張が走ります。
しかし忠勝は兵士たちに
「曳くぞ!曳くぞ!」(←?原文『曳とう曳とう』。正しい訳をご存知の方、教えてください…)と口々に言わせながら川を渡り、



長束正家のいる水口城下を大行進



町の人はびっくりですよ…。
政情不安定とはいえ、豊臣政権下でもう何年も戦がない(たぶん)上方。



そこにいかにも田舎者の、むっさいむっさい三河侍たちが、眼を血走らせながら銃を持って大通りをぞろぞろぞろ…。



そして…数の上では圧倒的に勝るはずなのに、相手の傍若無人ッぷりになすすべもない長束軍


を尻目に忠勝以下三河武士団はそのまま堂々と退却(?)していったそうです。…ちなみにその時の徳川軍諸将とは
本多忠勝、
鉄炮頭服部半蔵、
根来衆を率いる成瀬正成、
槍半蔵こと渡辺半蔵、
加藤九郎次郎、水野太郎作、酒井輿九郎、阿部掃部。
そらうかつに手え出せんわ…
。…それにしても。ガン飛ばしながら敵の城のまん前を堂々突破。

君たちはやくざか!(笑)‥
いやあタイムマシンがあったらぜひ見てみたいですね!
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『戦国時代に「崖の上のポニョ」っぽい絵を描いた武将がいる』
(出典・・松平家忠「家忠日記)
今このページを開いた人が一斉に「うそこけー!!」といっているのが聞こえる‥(笑)。
この絵を描いたのは深溝(ふこうず)松平家の4代目、松平家忠という戦国武将です。今年この人の子孫の墓所からお宝が出土して大騒ぎになった(詳しくはこちら)ので、「深溝松平」という名前はご存知の方もいらっしゃるでしょう。
家康配下の武将であったこの人は生前「家忠日記」という日記をこまめにつけており、戦国時代を知る超一級資料となっています。
何より貴重なのはこの日記が写本ではなくご本人直筆の原本で残っていることでしょう。
実はこの人、なかなかお茶目だったらしく、日記中にはご本人が描いたとおぼしき落書きも多々残されております。
上の絵はその中でも一番有名な「人魚の図」というものです。
ある日「琵琶湖で人魚が発見された!」という噂を遠く三河の深溝で聞いた家忠さんが、
「こんなんかなー?」
と想像して描いた絵なんだそうです。
‥人魚というと我々はリトルマーメイドみたいな、腰から下が魚の人間を想像してしまいますが、これはどちらかというと首から下が魚。
‥こ、このフォルムは‥‥‥ポニョ!?
なーんと、400年以上前に日本でポニョっぽい絵を描いた人がいたんですねえ!
(ジブリファンに怒られそうだ)
ま、あくまで「っぽい」ですから!検索で間違って来ちゃった方も広い心でお許し下さい。
‥ちなみに。
このほかにも日記中にはさまざまな落書きが残されております。中には後世の人が勝手に加筆したものもあるそうですが(加筆するなよ‥)、素人目にはわかりませんので、ここではその中でも孔が面白いと思ったものをいくつかご紹介します。
それでは家忠画伯の魅惑の世界へ、あなたもどうぞ!!
夫婦で何かのゲームやってるところ?仲良かったんだね、きっと。
今日のご飯。その辺のブログとやってることはあまり変わらない。
結構芸術的だ。

日記の中でも暇さえあれば狩りや魚とりをしていたことが伺える家忠さん。そのせいか動物は結構上手。
ま、こんなのもありますが。これは何?‥物憂げな犬。
当時は深溝にも猿がいたのだろうか。
こんな風に魚獲りしてました。なにげに水の描写が上手い。
鬼?なんか現代でも「よい子はここで遊ばない」の看板に描かれてそうなイラスト。「マンガのような目」は当時からあったんですね〜。
頭の上のキャラが超気になるんですけど!
右の人がいい味出してるね‥。こういう部下がいたんだろうか。
雑技団?
こういう絵を見ると「ああ、戦国の人なんだなあ」と思う。
捕虜?それとも着物がない人たち??‥いかがでしたか?
「家忠日記」は本文も信康事件や数正出奔の時のことが徳川の一武将の視点から描かれていて、読んでいるとまるで自分がその時代の武将になったかのような錯覚に陥る面白い日記です(ま、ほとんどはシンプルな記述なんですが)。
今年の秋にはこの日記を収蔵している駒澤大学で家忠日記が全面公開されます(詳しくはこちら)。
興味のある方は見に行かれてはいかがでしょう。
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『古風だと言われている酒井忠次の甲冑は実はハイテク』
(出典・・宮崎隆旨氏講演会「徳川四天王の甲冑」レジュメ)
岡崎市で開かれた「徳川四天王展」でも展示されなかった酒井忠次の甲冑、色々威胴丸具足(代わりに別の甲冑がきてました)。
戦国末期、機能性に優れた当世具足(忠勝や康政のような、鉄板を重ねたようなもの)が主流になっていった時代、四天王のうち酒井忠次の甲冑だけはこのような(↑イラスト参照)中世の香り漂う毛引威でした。しかも使いにくいと言われる大袖(板みたいな肩のパーツ)であります。
むむ、今で言うなら一人和装で渋谷を歩いているような、昔かたぎの老紳士の装いといったところでしょうか!!
現代人は忠次のこの甲冑を評して「いかにも古武士、古風で頑固なデザインだ」と言います。
‥しかし。
実はこの甲冑、古風だ頑固だと言われながら
ほとんどの部分が革でできた超軽量品なんだそうです。
小札(こざね)という一番ベーシックな作り(小さい鉄板と革を交互に重ねていく作り方)でありながら、大部分が硬い革を使った札(さね)、最も強度を必要とする腹と背中の一部に鉄板が使われている程度なんだそうです。
昔の甲冑はこれよりずっと鉄板の比率が多いそうなので、これはハイテク製品ですね。
ちなみに‥対照的なのが家康のいわゆる「歯朶具足」。
伊予札(小札を簡略化した作り)でありながら、胴体全部が鉄製。
総重量は20キロくらいあるそうで、丈夫であるばかりか着ているだけでもかなりのトレーニングになっただろうと推測されます。
さらに、忠次の甲冑は草摺り(腰の周りのひらひら)の数も当世具足のように細かく分けて身体にフィット感を出し、兜(スジ兜)も12枚の鉄板を32枚に見えるように加工してある(つまりそれだけ軽い)など、デザインは重厚でレトロでありながらしっかり最新の技術や流行も取り入れた、実は
「おしゃれ」
で
「ハイテク」
な逸品だったようです。むむ、今で言うなら一人和装で渋谷を歩いている老紳士‥でありながら、その着物の素材はNASA開発の超軽量保冷素材、よく見るとベ○サーチってロゴが入ってるぞ!といったところでしょうか!?
ただ古いものにこだわるだけではなく、そこに合理性をとりいれるあたり、忠次の人柄が垣間見れるなあと思うわけであります。
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『安藤直次は主君から借りた望遠鏡を壊した』
(出典・・翁草)
先日NHKの「もう一度見たい番組特集」みたいなのを観ていたら、あの伝説の人気番組「クイズ面白ゼミナール」の「歴史クイズ」第一回目でこの話が取り上げられていました。
その時は「ふーん」で終わっていたのですが、よもやあの、当トリビアではおなじみ(トリビア32参照←ここをクリック)の安藤直次さんの逸話だったというのはつい最近知りました‥。
家康の10男・頼宣は家康から遠眼鏡(望遠鏡)をもらいました。
頼宣はたいそう喜び、国もとの櫓に登って遠くを歩いている人の家紋や顔を見て面白がっていました。
‥まあ、今も昔ものぞき趣味は人間の性分といいますか‥。
その夜。
家老の安藤直次が出仕してきました。
直次は頼宣が遠眼鏡で見たことを楽しそうに語るのをだまって聞いていましたが、その遠眼鏡を借りうけるとそれを持って出て
がっしゃーん!!



槍の間の敷居に打ちつけ、打ち砕いてそのまま退出していってしまいました。
「???
」あっけに取られる頼宣とその側近。普通の家臣なら即取り押さえてお手うちですが、なにしろ直次は父家康から特別につけられた付家老、藩のナンバー2ですので、頼宣は頭が上がりません。しかも理由を聞こうにもかなりじいやは怒っているようだし‥
。頼宣は小姓両名に命じて直次の後をつけさせました。
直次は自宅に帰るとその小姓たちを見つけて
「殿はわしが気でも違ったかとお思いになったかもしれぬがそうではない。
遠眼鏡というものは敵の陣中や船などをご覧になるか、お慰みに使うにしても森や山をご覧になるならばそれは重宝なことだ。
だが、今日のようにご城下をいつも見ているのならばもってのほかの害だ。
国主が櫓から城下をじかにご覧になっていると承ったら下々の者はその道を通ることができなくなるであろう。それだけでも民にとっては迷惑だ。
その上、下々は常々不作法が多いが、それでもって気を養っている。だがそれもご奉公のため。
このように申す私とて、かげの暮らしをご覧になられたら殿はおあきれなさるだろう。そのほかにも殿から見限られる者が続出することだろう。
外国の聖主は下々のことをじかに見聞きしないよう冠に目隠しのすだれをかけ、左右に耳金をつるしていたという。一国の君主はよくお考えになることだ。」
‥それを伝え聞いた頼宣はその諌めを聞き、その後遠眼鏡のことはいっさい口にも出さなかったといいます。
現代にも通じるすばらしい直次の言葉、思わずほとんどそのまま書き写してしまいましたが、途中「かげの暮らし」というあたりで思わず噴き出してしまったやつがここにいる(そしてこの話を自宅まで行って聞いたという小姓二人をちょっと心配した)
。‥まあそれは冗談にしても(笑)、直次も井伊直政や永井直勝との「噂」(こちらを参照)が400年後まで残っているくらいの人ですから、ひょっとしたら若いころは他人の「のぞき根性」によって心無い噂を立てられたりして彼なりにつらい思いをしたのかもしれませんね
。他人に対して厳しいエピソードの多い直次ですが、厳しいようでちゃんと主君を立ててるんですよね。
直次が家康からじきじきにつけられた家老ということは皆が知っている事実。
その家老に叱られてしまったら若い君主のメンツが(内にも外にも)立たない。
主君をじかに叱るのではなく、独り言という形で間接的に主君を諌める、そのへんに直次の人間性、そしてこんな直次を息子の教育係にした家康の人を見る目の確かさが感じられます。
直次は家老職の傍ら、紀州田辺の城主(付家老は家臣でありながら城が持てるという特権がありました)として、やせた土地でもできる梅の栽培を奨励したりして地元の発展に貢献しました。
そう!現在有名な和歌山の梅は三河武士の安藤直次がその始めだったんですね〜。
これから
梅のおにぎり
を食べる時は直次のプライベートに思いをはせてください‥。↑イラスト解説‥
実際には目の前では壊していない。足で踏んでもいない。でもイメージで、ね。
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『鳥居元忠は鉄砲玉を拾わせて部下を守ったことがある』
(出典・・重誠社「鳥居元忠」和田兼三郎 大正11年)
北条攻めの時のこと。
城にこもった敵が激しく銃弾を浴びせかけてきました。兵士たちはパニックになり、あるものは撃たれ、あるものは逃げ惑うばかり。
しかし、それを見た元忠は何を思ったか兵士に
「皆の者、銃弾を拾え。」
と命じたのです。
「!???」
うちの殿は何言ってるんだ???
しかし容赦なく撃ちかけて来る銃弾の中、兵士たちはわけも分からずとりあえず命令に従います。
鳥居隊はさながらミレーの「落穂拾い」状態…。
すると…
城兵が撃った弾は味方の兜の上を掠めていき、味方はその虚に乗じて堀際にたどり着くことができたのだそうです。
ただ「あわてるな」「伏せろ」というのではなく、具体的な目的を指示することで部下をパニックから救った元忠。トリビア37でもご紹介した元忠の見事な人間心理操作術(?)がここにも出ていますね。
後年…。
家康が関ヶ原の前に(敵に囲まれると分かっている)伏見城に元忠を残したのは「石田方に怪しまれないくらい身分が高い者で、殺してもそれほど惜しくない奴を選んだ。」なんてことも言われますが、実は彼のこんな能力を買ってのことだったのかもしれません。
50年来の男の友情というのは、そんなに単純なもんじゃない…と思うのですよ。
「彦右衛門(元忠)なら、どんなに絶望的な戦いでも最後まで部下を統率してくれるだろう。」
籠城した元忠率いる千八百名の兵士が、四〜五万とも言われる西軍を相手に一週間も持ちこたえたのは、伏見城の堅固さもさることながら、こんな元忠の能力と兵士から元忠への厚い信頼があってこそだったと思うのです。
↑画像解説:命令だからと鉄砲玉を拾っていたら、楽しくなって思わず一生懸命拾ってしまった部下たち。城攻めは…?
三河の武士は一途な武士よ〜♪
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